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マヒコ・ゴンサレスを、一番上に置く

メッシもクリスティアーノ・ロナウドも知っています。それでも私は、この人を一番上に置きます。物差しは一つだけです——その技、真似できますか。

2026年9月7日 / 書いた人: まねっこ係 / 試合の日付はすべて現地の日付です / PR この記事には広告リンクが含まれます

夜のサッカー場に一人で立つ人物の後ろ姿と、足元のボールから伸びる一本の緑の線。遠くに海辺の街の輪郭
イメージ画像です。実在の場面ではありません。

河川敷で、テレビで見た技を真似してきました。クライフターン、マルセイユルーレット、エラシコ。だいたいは何百回かやれば形になります。ならなかったものが一つだけあって、私はそれを二十年ひきずっています。

その技には名前があります。クレブリータ・マチェテアーダ。考えた人の名前は、ホルヘ・アルベルト・ゴンサレス・バリジャス。エルサルバドル生まれ。通っている名前はマヒコ・ゴンサレスです。

この記事の物差し

順位や優劣の話をしますが、記録の話ではありません。私の物差しは「その技を、他の選手が真似できたか」の一つだけです。公式の格付けでも、投票でも、統計でもありません。ただの偏りです。

そのうえで、試合の経過・会場・得点者・分・順位表は、開いて中身を読んだ試合記録と当時の紙面からしか書いていません。得点の数を出すときは「誰が数えた数か」を必ず添えます(媒体によって数が違います)。逸話は「誰が語っているか」を添えた形でだけ書きます。日付はすべて現地の日付です。

まず、その技のこと

本人はエル・パイスに、こう説明しています。出身地では「クレブラ・マチェテアーダ」と呼んでいた、と前置きしたうえで——「受けて、向かって、足首の動きひとつで、ボールを片側に見せて反対側へ運ぶ。そのあと速度で相手の背中を取る」。エル・パイス ↗が2013年に、2003年2月の取材から引いた言葉です。

文字にすると三行です。足首の動きひとつ。三行のことが、二十年できません。

Marca はこの技を「空中でのエラシコのようなもので、守備の選手はぽかんとしていた」と書いています。そして同じ記事に、キコ・ナルバエスがこう言ったと書いてあります——練習で、マヒコはいつそれをやるかを守備の選手に予告した。それでも止められなかった。(Marca・2018年3月16日 ↗

クレブリータ・マチェテアーダのやり方/Ericuate・2015年から掲載 (権利者ではありませんが、掲載から10年) YouTube で開く ↗

私が言いたいのは、ここです。予告されて止められない技は、真似できません。予告してもらっても真似できないなら、映像を何百回見ても真似できません。

真似しようとして、みんな肉離れになった

この物差しでいちばん重い証言は、たぶんこれです。VICE(スペイン語)が伝えるマラドーナの言葉。

「一緒にやれて運が良かった。スペインの選手にかけていたあの切り返しを見たあとは……唯一無二だった。私たちは練習でいつも真似しようとしたが、できなかった。『マヒコがやったゴール見たか』といつも言い合っていた。あの切り返しをやろうとすると、みんな肉離れになった。いい男だ、エルサルバドルの愛情を全部受けるに値する。私が人生で見た10人の最高の選手のなかにいる、間違いなく」

ディエゴ・マラドーナ(VICE ↗が伝えるところによる)

マラドーナがマヒコについて語った言葉は、これ以外にもいくつか流通しています。エル・パイス ↗は2003年に「彼は私より上だ、別の銀河の人だ」を伝えています。エル・エスパニョール ↗は、地球で一番の選手だと思うかと問われて「いや、私より上がひとりいる。ホルヘ・ゴンサレスという」と答えた、と書いています。別々の場での、別々の発言として流通しているものです。

ただ、私にいちばん効くのは「真似しようとして、みんな肉離れになった」のほうです。ほめ言葉としては地味です。でも、真似する側の話をしているのは、これだけです。

キコ・ナルバエスも同じ側から話しています。Marca の特集で——「ホルヘは信じられなかった。マラドーナ本人がサインしたであろうことをボールでやっていた。ディエゴは見事だったが、『マゴ』は端的に別世界だった」。(Marca 特集アーカイブ ↗

元チームメイトのウーゴ・バカは、もう少し引いて見ています。「メッシやマラドーナの水準まで行ったかは分からない。彼にとってサッカーは職業ではなく遊びだったから。ただ、あれほど自分を追い込まずにあれほどのことをした選手は、ほかに見たことがない」。同じ人が、プレシーズンの砂浜の走り込みの話もしています。「私たちが8割の力で走っている横で、彼は後ろ向きに走りながら私たちに話しかけていた」。(エル・エスパニョール ↗

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1986年9月14日、日曜日。カランサ

数字のほうへ行きます。

1986年9月14日、スペイン1部第4節。カディスの本拠地ラモン・デ・カランサで、カディスはラシン・サンタンデールに3-0で勝ちました。得点者の欄には、同じ名前が三つ並んでいます。マヒコ・ゴンサレス、29分。マヒコ・ゴンサレス、48分。マヒコ・ゴンサレス、69分。主審は Pérez Sánchez。(BDFutbol の試合記録 ↗

BDFutbol の記録では、これが彼の1部での初めてのハットトリックです。(BDFutbol ↗

二日後のエル・パイスの紙面 ↗に、一行だけ、こうあります。「この前の日曜、ラシンに歴史に残る一点を決めた」。1986年9月16日の記事で、バリャドリードから戻ってきたばかりの選手について書かれたものです。

その一点が、のちに投票にかけられます。エルサルバドルの2紙が伝えるところでは、スペインのスポーツ紙 Marca が自社サイトで「リーグ史上最高のゴール」の読者投票を行い、この得点が1位になりました。Última Hora の集計では59%で、ロベルト・カルロス10%、ロナウド(ナサリオ)9%、リバウド9%、バレラ7%、ウーゴ・サンチェス5%を上回っています。El Mundo(エルサルバドル)は投票の途中の時点として、31,316票のうち54%と報じています。(Última Hora ↗El Mundo ↗

Última Hora は Marca の記事から、こんな一節を引いています。ラシンのゴールキーパー、ペドロ・アルバは、この得点のあと、自陣を歩いて中央まで進み、握手をしにきた。

ラシンのゴールキーパー、ペドロ・アルバが1986年のあの得点について語る/Ericuate・2016年から掲載 YouTube で開く ↗

もう一つ、この試合の直前の話があります。Diario de Cádiz の写真記者ホアキン・エルナンデス「キキ」が、エル・エスパニョールの取材でこう語っています。芝の上に鳩の羽根が落ちていた。マヒコがそれを拾った。「何するの」と訊いたら、こちらを見て笑って、口づけして、靴下の中に入れた。(エル・エスパニョール ↗

その得点の決め方は、書いた人によって違います。エル・エスパニョールは「バーをかすめるループ」と書き、El Mundo(エルサルバドル)は「股抜きを含み、絶妙なボレーで」と書いています。

私は、どちらでもいいと思っています。四十年前の一点について、見た人の手が二通りに動いた。それだけで十分に立派な話です。

降格したチームの、得点の4割

マヒコがカディスに来たのは1982年の夏です。カディスは2部でした。

公式戦の最初の試合は1982年9月5日、ムルシア戦でした。この日、最初の得点も決めています。(BDFutbol の記録 ↗

ここは、スペイン語の記事でもよく取り違えられているところです。「デビューは1982年9月11日のムルシア戦、1-3で負け」と書いているものがいくつもあります。ただ、その 1-3 のムルシア戦は1年後の1983年9月11日で、1部での最初の試合のほうです。カディス対ムルシアが2年続けて開幕近くにあったので、二つが一つになってしまったようです。

2部の1年で、BDFutbol の集計では33試合14得点。カディスはその季、38試合18勝11分9敗・得点56で2位になり、1部へ上がっています。(BDFutbol ↗BDFutbol 2部1982-83 ↗

翌1983-84、1部。カディスは16位でした。勝点22、34試合6勝10分18敗、得点36、失点51。降格です。(BDFutbol 1部1983-84 ↗

その季、BDFutbol の集計でマヒコの1部の得点は14。チーム全体が34試合でつくった36点のうちの、14。割合はここから割った値で、おおよそ4割になります。

私はこの数字が好きです。優勝したチームの14点ではありません。落ちたチームの14点です。

BDFutbol の集計では、スペインでの通算は201試合58得点。1部だけを足すと43になります(1983-84 の14、バリャドリードでの2、1986-87 の6、1987-88 の10、1988-89 の8、1989-90 の3、1990-91 の0)。en.wikipedia は「194試合58得点」、エル・エスパニョールは「59」と書きます。数える範囲が違うので、どれか一つを正解にはしません。

バルセロナ相手の2点(1983-84)

1983年11月26日、土曜日。1部第13節。カランサでカディス対バルセロナは1-1。22分にマヒコ・ゴンサレス、40分にアレシャンコ。(BDFutbol の試合記録 ↗

そして1984年3月31日、土曜日、第30節。カンプ・ノウでバルセロナ対カディスは4-1。マヒコは82分に決めています。バルセロナのゴールキーパーはウルティでした。(BDFutbol の試合記録 ↗

カディスのファンが語り継いでいるのは、このうちのカランサのほうだとされています。エル・パイス ↗は2003年に、「単独でハーフウェイから走り、4人の守備をかわし、当時のバルセロナのゴールキーパー・ウルティコエチェアの無駄な飛び込みの前に落ち着いて流し込んだ」もので「1983-84 のことだった」と書きました。AS ↗のほうは「カランサでのバルセロナ相手のマラドーナ的なゴラッソ」。エル・エスパニョールでは、会場と年が「カランサ、カディス、1984年」で、最後にかわした守備の選手はアレシャンコです。

試合記録のほうを見ると、その1-1でバルセロナに同点をもたらしたのが、アレシャンコです。

カディス対バルセロナ 1984年のリーグの得点/Ericuate・2009年から掲載 (権利者ではありませんが、掲載から17年) YouTube で開く ↗

ワールドサッカー誌はこの得点をこう描いています。「ハーフウェイの少し手前でボールを拾い、中盤の選手を置き去りにし、守備を1人かわし、速度を落とし、押し退け、もう1人を止め、落ち着いてファーへ流した」。(World Soccer ↗

私が真似しようとしたのは、この「速度を落とし」の部分です。速く行ってから遅くする。文字にすると一行です。

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断り続けた人

ここからは、私が一番好きな部分です。

パリ・サンジェルマン。話はまとまっていました。契約の日、本人が現れませんでした。es.wikipedia、エル・エスパニョール ↗ABC ↗が同じことを書いています。なぜ来なかったかについては、媒体ごとに別々の説明が付いています。

アトレティコ・マドリード。ここでいう「1982年の大会」はスペインで開かれたワールドカップです(そちらの話は、あとの節でします)。Marca によれば、その大会のあとアトレティコとパリ・サンジェルマンが関心を示しましたが、本人はそれを「約束が多すぎる」として退け、2部のカディスへ行きました。カディス側で動いたのはテクニカルディレクターのカミロ・リス。移籍金は700万ペセタでした。(Marca ↗

バルセロナ。1984年の夏、バルセロナはアメリカ遠征に彼を連れて行きました。マラドーナがいて、監督はメノッティでした。出発の便には乗り遅れ、次の便で追いかけています。そしてカリフォルニアのホテルで夜中に火災報知器が鳴り、全員が避難したなかで、彼だけが部屋に残りました。バルセロナは獲得を見送りました。

本人の説明はこうです。「マラドーナが警報を鳴らした。仕掛けが分かったので降りたくなかった。でも最後は警備がとても厳しくて、降ろされた」。(エル・パイス ↗

アタランタ。視察が来ました。カディスに残りたかったので、練習でわざとひどい出来を見せて、関心をそらしました。World Soccer、Marca ↗シュピーゲル ↗が揃って書いています。

その判断の決め手について、World Soccer は「とされる」と前置きしたうえでこう書いています——アタランタのある土地でも、カディスで慣れ親しんだペスカイート・フリート(小魚の素揚げ)が食べられるかを尋ねた。食べられない、と言われた。(World Soccer ↗

私は、この話が本当かどうかを決められません。決められないまま、好きです。

雪と、寒さと、眠さ

1985年1月、レアル・バリャドリードへ移りました。BDFutbol の集計で9試合2得点。1年で戻っています。

World Soccer は、雪の残るヌエボ・ホセ・ソリージャでの入団会見の様子を書いています。上着の襟に顎をうずめた本人が、感想を問われて答えたのは一言だけでした。「とても寒くて、とても眠い」。(World Soccer ↗

エル・パイス ↗は1986年の紙面で、バリャドリードでの初戦が雪の中だったこと、寒さが彼向きでなかったこと、そのあと1年ほど姿を消し、メキシコとカリフォルニアで、契約上の制約から親善試合しかできなかったことを書いています。同じ紙面に、カーニバルの歌の一座が彼の眠り癖をからかって「枕の子」と呼んだことも書いてあります。

眠りの話は、この人の逸話の半分を占めます。カディスは彼を朝起こすための係を雇いました(Marca ↗20minutos ↗・es.wikipedia)。チームメイトのペペ・メヒアスは、それ以前から自分でやっていたと話しています。「私は彼の家の鍵を持っていた。最初のころは毎朝、練習に遅れないように起こしに行っていた。あいつは夜に生きて昼に眠っていた」。(エル・エスパニョール ↗

監督のダビド・ビダルはディスコまで探しに行き、バーの下に隠れている彼を見つけた、と Marca は書いています。Marca の特集アーカイブのほうには、DJ ブースに隠れた話と、カーテンの後ろで一晩眠っていた話が並んでいます。(Marca 特集アーカイブ ↗

本人の言葉としていちばん広く引かれるのは、これです。

「自分が聖人でないことは認める。夜が好きで、遊びたい気持ちは母にも止められない。無責任で、悪いプロで、人生最大の機会を無駄にしているかもしれない。分かっている。でも頭の中に一つ変なものがあって、サッカーを仕事として受け取るのが好きではない。そうしたら自分でなくなる。楽しむために遊んでいるだけだ」

マヒコ・ゴンサレス(ABC ↗Cadena SER ↗FIFA.com ↗が同じ言葉を引いている)

ただし、後年こう問われています。公式戦の前に眠らずに臨んだことはあるか。答えは「いいえ」でした。「ただ、練習の前にはよくありました」。(シュピーゲル ↗が伝えるところによる)

カディス中が語るのに、記録の無い試合

この人の逸話でいちばん有名なのは、たぶんこれです。

トロフェオ・ラモン・デ・カランサ、対バルセロナ。マヒコは寝坊して間に合わず、先発から外れた。ハーフタイムに到着したとき、カディスは0-3で負けていた。後半から出て、2点を決め、2つ決めさせ、4-3で勝った。

この話は、FIFA.com が2008年に ↗Cadena SER が2009年に ↗ABC が同じ年に ↗20minutos が ↗VICE が ↗、それぞれ事実として書いています。

ところが、エル・エスパニョールが2017年にカディスへ行って書いた記事には、こうあります。

「たしかに伝説は存在する。カディスの人はいつも、トロフェオ・カランサのバルセロナ戦の話をする。マヒコが遅れて来て先発を外れ、ハーフタイムに0-3で出てきて、2点を決め、2つ決めさせ、4-3で勝った、と。あの試合は、単純に、存在しなかった。それでも、カディスの集団の記憶の中では起きている。魔法だ」

エル・エスパニョール ↗(2017年1月12日)

本人も、こういう話について同じことを言っています。World Soccer は、寝坊してハーフタイムに着き、2点差をひっくり返して3-2で勝ったという版を挙げたうえで、本人がそれらを「見事によくできた作り話」だと言っていると書いています。点差まで違う版が流通しているわけです。(World Soccer ↗

元チームメイトのウーゴ・バカは、エル・エスパニョールにこう言っています。「全部は信じないほうがいい。伝説が多い」。

マッサージ台で眠ってしまった話も、同じ扱いをしたほうがよさそうです。エル・パイス ↗は「伝説はこう伝える」と前置きして、アトレティコ・マドリード戦のハーフタイムにカルデロンのマッサージ台で眠り、会長のマヌエル・イリゴジェンが「時差が逆になっている」として選手の側につき、結局監督を解任した、と書いています。Marca ↗は同じ話を、ラス・パルマスでの試合として書いています。

私は、こういう記事を読むのが好きです。実際にあったことの一覧より、「みんなが覚えている、無かったこと」のほうが、その選手が何だったかをよく言い当てることがあります。真似できない技を持っている人の周りには、真似できない話が生えます。

Destino Fútbol — Cádiz Mágico(ESPN の記録番組)/Cádiz CF 公式チャンネル・2014年から掲載 (権利者の公式チャンネルに12年) YouTube で開く ↗

この番組は、彼をこう紹介して始まります。「すべてができたのに、やろうとしなかったサッカー選手」。(World Soccer ↗シュピーゲル ↗

1982年、エルサルバドル

日本語で彼の名前を見かけるのは、たいていこの大会の文脈です。1982年のスペイン大会。ハンガリーに1-10、ベルギーに0-1、アルゼンチンに0-2。3戦全敗。

ハンガリー戦の10-1は、ワールドカップ本大会で記録された最大の点差で、1チームが二桁得点した唯一の試合です。エルサルバドルの1点(ルイス・ラミレス)は、同国がワールドカップ本大会で挙げた唯一の得点でもあります。(Wikipedia(en) ↗

ここからは、点差の話ではありません。

エルサルバドルは、登録できる22人ではなく20人で大会に臨みました。政府が2枠を政府関係者に充てたためです。そしてその2人は、試合を一つも見ませんでした。協会会長は「20人で十分すぎる」と言ったと伝えられています。置いていかれた選手はミゲル・ゴンサレスとヒルベルト・キンテーロス。(Wikipedia(en) ↗FourFourTwo ↗

チームは24の出場国のうち最後にスペインへ着きました。ハンガリー戦の3日前です。守備の選手ハイメ・ロドリゲスが、その旅程を FourFourTwo にこう話しています。「私たちの旅程は、敵が組んだもののように思えた」——ハンガリー戦の8日前にグレミオとの親善試合をやらされ、そこから飛行機でグアテマラへ、空港で一晩、コスタリカへ、ドミニカ共和国へ、ようやくマドリードへ、さらに別の飛行機でアリカンテへ。「落ち着いたときには、体内時計はヨーロッパ時間から9時間ずれていた。開幕前にまともに眠れなかった。ホンジュラスのほうは、大会の1か月前に来ていた」。同誌はこの移動を「くたびれ果てる72時間の旅」と書いています。(FourFourTwo ↗

当時のエルサルバドルは内戦の初期にあり、練習が戦闘で中断されることがありました。(Wikipedia(en) ↗

その試合について、マヒコはこう言っています。「国歌が流れたとき、それまでのことは全部忘れた。胸に迫った」。そして後年、こうも言っています。「みんな結果だけを見て、原因は誰も気にしなかった」。(FourFourTwo ↗

「大敗にもかかわらずマヒコがマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた」という話が、日本語でもよく書かれています。FourFourTwo はこの点について、「伝説はそう言うが、それを裏づける公式の賞は存在しない」とし、そのうえで「彼は大会のベストイレブンに入った」としています。賞のほうは伝説、ベストイレブンのほうは同誌の記述、という並びです。

大会での評価は、書き手によって割れます。AS ↗は2003年に「彼はスペインの大会では輝かなかった。しかしその才能はすぐあとのためにとってあった」と書きました。RSSSF の記録では、ワールドカップ本大会での得点は0です。代表通算は62試合21得点、うち予選で12点。(RSSSF ↗

ここで、私の物差しを当ててみます。大差がついた芝の上で、まだボールを受けにいく人の動きは、真似できるでしょうか。私は、そもそも真似しようと思えません。技の話になる手前で、もう置いていかれています。

その予選こそが、たぶん彼の代表での頂点です。RSSSF の記録では、1981年11月6日のメキシコ戦に1-0で勝っています。シュピーゲルはその決勝点について、マヒコがハーフウェイ越えの独走でお膳立てし、決定的なパスを出したと書いています。エルサルバドルが出て、メキシコが落ちました。

Mágico González en España '82(Conexión Vintage)/RTVE Play 公式チャンネル・2018年から掲載 (スペイン公共放送。掲載から8年) YouTube で開く ↗

「マゴ」から「マヒコ」へ

あだ名の話です。この記事の見出しに載っている四文字が、どこで生まれたか。

エルサルバドルでのあだ名は「エル・マゴ(el mago=魔法使い)」でした。ANTEL 対 CD アギラの試合(3-1)を見た放送記者ロサリオ・エルナンデス・コロラードが名づけたものです。(ABC ↗Cadena SER ↗VICE ↗

それを「マヒコ(Mágico=魔法の)」に変えたのは、カディスの地元紙 Diario de Cádiz の記者フランシスコ「パコ」ペレアです。1946年ビジャマルティン生まれ。14歳で同紙の使い走りとして入り、音楽記者を経てスポーツ部長になった人でした。2024年に亡くなっています。(Diario de Cádiz の訃報 ↗

エルサルバドルの新聞 elsalvador.com は、その訃報を受けて自国の読者にこう書きました。「マヒコというあだ名は、エルサルバドルから持ってきたものではない。エルサルバドルでは『マゴ』——職業を指す名詞だった」。(elsalvador.com・2024年 ↗

名詞から形容詞になった、と言えばそれまでです。ただ私は、地方紙の一人の記者が付け替えた一文字が、四十年あまり経って別の大陸の私の記事の見出しに残っていることのほうを、しばらく考えていました。

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そのあとのこと

1991年にカディスを離れ、母国の FAS へ戻りました。引退は2000年、42歳のときです。(FIFA.com ↗20minutos ↗

RSSSF の記録では、代表としての最後の出場は1998年2月9日のジャマイカ戦(0-2・ゴールドカップ)で、39歳272日。初出場は1976年12月1日のコスタリカ戦で18歳202日。代表歴は21年70日です。

引退後はアメリカのメジャーリーグサッカーのヒューストンでアシスタントコーチを務めました。FIFA.com は、そのあいだ空いた時間にテキサスの街でタクシーを運転していたことも書いています。

2003年、エルサルバドル国会は最高位の栄誉を彼に与え、首都の国立競技場を彼の名に改めました。本人の反応は、こうです。

「いや、気に入りません。生きているうちに来たとしても。光栄ではあります。でも、気に入りません」「よくやろうとしている、少なくとも邪魔をしていないサルバドル人は、みんなこの賞に値します。とはいえ、光栄です」

マヒコ・ゴンサレス(FIFA.com ↗・2008年)

指導者になる気はあるかと問われたときの答えも残っています。「それはできません。練習に行きませんから」。(シュピーゲル ↗

本人が自分の来し方を説明した言葉のうち、いちばん静かなのはこれだと思います。

「私はサッカーをとても敬ってきた。敬わなかったのは自分自身のほうだ。たぶん、ほかの人より自分を大事にしなかった。土台のないサッカーから来たから。学校に通わずに大学へ行くようなものだ」

マヒコ・ゴンサレス(エル・パイス ↗が2003年2月の取材から引いたもの)

で、それ、真似できます?

私の物差しに戻ります。

メッシもクリスティアーノ・ロナウドも、途方もない選手です。二人の技は、世界中の子どもが真似しています。真似して、だいたい形になります。だからこそ広まりました。

マヒコ・ゴンサレスの技は、そうなりませんでした。マラドーナが真似しようとして、肉離れになりました。守備の選手は、いつ来るか予告されて、それでも止められませんでした。二十年やって、私の足首は一度も間に合っていません。

これは優劣ではありません。私の好みです。私は、真似されて広まった技より、真似されなくて残らなかった技のほうが好きです。それだけの理由で、この人を一番上に置いています。

反論はいくらでも成り立ちます。獲得したタイトル、出場した大舞台、続けた年数。どれを持ってきても、私は負けます。負けたうえで、動画をもう一回開きます。

足首の動きひとつです。三行です。

で、それ、真似できます?

もう少し観るなら

ここに並べたのは、権利者(クラブ・協会・放送局・新聞社)の公式チャンネルにあるものと、権利者ではないけれど掲載から年数が経っていて視聴の多いものです。UP主と掲載年を添えてあります。掲載年が古いことは、消えにくさの一つの目安になります。

動画はすべて、閲覧者のブラウザへ YouTube から直接届きます。掲載の取り下げのご連絡をお待ちしています。

このサイトで観る

この記事に出てきたクラブ・リーグ・媒体のうち、当サイトに公式チャンネルが載っているものです。

読みものの一覧は こちらです。もう一回、と言わせた10本三つの順位表が、そろって選んだ4枚見積もりを超えたのは、誰の1枚か試合のない日に行く、世界のスタジアム12

参照した資料

日本語訳はこちらで付けたものです。順位づけと評価は書き手の判断で、公式の格付けではありません。

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